昭和49年03月20日 朝の御理解



 御理解 今日は「御理解」と云う此処の所を頂くんです。ですから「御」と云う字と、「理」と云う字と、「解」と云う字をこう頂きますから「御」「理」「解」と云うこの字に付いて御理解を頂きたいと思います。

 此処では全ての事柄に御の字を付けると、最近言われております。全てを御事柄として、頂いて行くと言う事。なぜ御の字を付けて頂かなくてはならないか、と云う様な事を聞いて頂きたい。それからこの「理」と云う字は王扁に里と書いてある。王さまの王と云う字を書いてに里と書いてある。だから是は私共の一番王様は教祖様ですから、私共の心の故郷と云うのは御本部と云う事、御本部の中心は御広前・御結界ですけど、又霊的な意味においての中心は奥城であります。
 「解」と云う字、御理解の解と云う字は、角と云う字を書いて刀を書いて、牛と書いてある。だから私は是を角というのを正確にと、正確に牛を解くと云う事、牛を解くと云う事は、牛を殺す所をとき場と言うでしょう。この刀と云う字は、牛を解く言う風にと聞いて下さい。牛というのは皆さんもご承知のように、廻りとこうおっしゃる。牛のお知らせは家の廻りとこう教えられてある。それも角正確にね、廻りのお取り払いを頂く為にはと云う風に頂きたい。
 「理」と云う字を教祖奥城と、「御」の字を合楽で言われる全ての事に御の字を付けて合掌して受けて行けと、なぜ御の字を付けなければいけないか、と云う様な事を聞いて頂きたいと思います。私今朝方起きりがけに、此のお夢じゃなくて御神示ですね。言葉で頂いたのですから、それで目が覚めたら丁度三時十五分、何時も起きらして頂く時間でした。『人力に見切りを付けて 神力に縋れ人力自ずから湧く』と頂きました。「人力」というのは人の力です。それに見切りを付ける。
 「神力」というのは神の力です。「神力に縋れ人力自ずから湧く」という意味がどうしても解りません。「人力に見切りを付ける」と云う事は解るんですよね。所謂『障子一重がままならぬ人の身ぞ』と教祖が仰る様に、所謂われ無力である。神様のおかげを頂かなければ立ち行く事ではないと悟れた所から、こう神力神様に、所謂お縋りするのです。そこでなら皆さん今日この御理解を頂いて、只今から人力に見切りを付けると云う事だろうか、それではしかし余りの様にも思いますね。
 それで最後に、「人力自ずから湧く」と言う事の意味がまた解らない。人力に見切りを付けろと言いながら、「人力が自ずから湧く」と言う意味が解らなかったんです。そしたらね、あのうそれで目が覚めましたから、それで起きて枕の上に手を付いて、お目覚ましのおかげを頂いた事をお礼申させて頂いて、ああ今頂いたのは歌の口調で頂いた、「人力に見切りを付けて」とはどんな事だろうかと私は思うたんです。そしたらあのね。人力車ですね昔あった人力車、あれを一生懸命車夫が引いてきよる。
 一生懸命走って引いてきよる。空車をそして疲れたようにあの舵棒をボーンと下に投げる様に捨てて、そして真っすぐ一直線に、ただ今度は道を走って行くところを頂きました。ははあ「人力に見切りを付けて」と言う事はこう言う事だと分かった訳ですね。それから、「神力にすがれ」は神様に一心にすがれと言う事でしょうけど、「人力自ずから湧く」と言う事が解らん、と思うたら教祖様の奥城を頂きました。そしたら、今日この御理解と言う事です。ね。 
 「御」の字はなぜ合楽で、全てのこと柄に「御」の字を付けなければならないかと、勿論是は事柄だけではありませんよ。物にも御物神様の御物として、けれども取分け合楽では事柄に「御」の字を付けて頂くという稽古をさして貰う訳ですよ。皆さんはあのー知っとられるでしょうか。教祖様の奥城には、どう言う諡号ですね、どういう贈り名が贈られておるか書いてあるのを皆さんご承知ですか。
 今朝から私はその事の何かその感動が、こちらに出て参りましても、何かこう何か生き生きとしてね、感動が湧いて来るんです。成程なあ人力に見切りを付けて本当に神力にすがる所から、人力は自ずから湧いて来るんだと、いや神様がね、所謂人間の頂いておる全て、教祖様が生神金光大神「皆も此の様なおかげが受けられる」と云う様な内容を皆んな持っておるんです人間は。
 教祖様だけじゃない。誰でも持っておる。ね。その持っておる力を神様が引き出して下さると云う事なんです。ね。だから矢張り人力なんですね、所謂「人力自ずから湧く」と云う子とは、湧いたらどう云う事に成って来るか、人間の力がです、自分湧いて来る盛り盛りと湧いて来る。有難い心が湧いて来る。ね。教祖様の奥城の教祖様の贈り名というのは、勿論教祖様が亡くなられた後にどなたかが贈られた訳で御座いましょうけれども、私は改めて神ながらだなあと今日は思わして頂いた。
 奥城には、「人力威命(じんりきおどしのみこと)」とあります。人の力、威すと云う事は威嚇の威ですね。所謂威力の威です。人間の力で人の世それこそをアッと言わせる程しの事が出来るんだ、という意味なんです。ね。「人力自ずから湧く」というのは、そういう人間であって人間でない様な働きが出来る。それを超能力とでも申しましょうかね。けども、そのいかにも人間離れした人間じゃないごたるけども、実を言うたら、そういう力が人間の心の中には潜在しているんです。潜んでいるんです。
 それを我情我欲がある事の為に、我情我欲の為にそれが覆い被されておって、そういう力を出す事が出来ないでおるのです。段々解って来るでしょう。成程私共は自分の言うなら力と言う物にね、人間心とかね、人間業と言った様な物には、一辺見切りを付けさしてもらう。そうして、ただ見切りをつけたじゃない。例えばね、「人事の限りを尽くして天命を待つ」と言った様な言葉がありますね。「人事を尽くして天命を待つ」だからそんなもんじゃないです。ね。
 成程人事の限りを尽くさして貰って天命を待つではなくて、「神力に縋る」という、そこからが信心は違う訳です。普通はもうするだけの事はしたから、後はもう運を天に任せると言った風に言いますね。けども、信心はそこから愈々神力に縋るのです。神様にお縋りするのです。そこからどういう働きになって来るかと言うと、人力自ずから湧くと云う子とになって来る。言うならば、神様が私共の心の中に、普通で言うたら超能力と言われる様な力をです、私共の心の中から引き出して下さるのです。ね。
 そこにあの人は言うならば、人間でありながら人間以上の力を持った人を超能力者と云った様な風に申します。それをまあー私はお道では、御神徳家と云う風に、御神徳を受けられた人の姿と云う風に思います。だから金光様の御信心はどうでも御神徳を受けさせたい。受けてくれよ。おかげを受けてくれよというのは、御神徳を受けてくれよですよね。それはお前の銘々の心の中にあるんだとそういう力が、それを神様が引き出して下さる為にはね、人力に見切りを付けるという条件がいるのです。
 所が人力に見切りを付けようと思うけれども、我情我欲が邪魔をする。言うならば、廻りが邪魔をする訳です。ね。だからその廻りのお取り払いを頂く為にです私共は先ずは、人事の限りを尽くさなければいけない事になるのです。今朝から私、子供達が三人、毎朝一緒に奉仕させてもらいますから、もう三人共あそこに座った途端に、もう眠うして堪えんごと何時もしております。それで私今日は今朝方起きがけにこう云う事を頂いたよと、あんた達が眠うして堪えんと思う。
 けれども是は言うならば人事の限りを尽くしよるとじゃ、眠かろうけれども、そこを辛抱し抜かにゃいけん。そこの所を頂いたらね、もう一つも眠くない。いや有り難ぁい目覚ましのおかげが頂ける様になるよ。此処はどうでも矢張り、通る所を通らにゃいけんよ。と言うて話しましたら、三人共パッチリ目を覚まして私の話を聞くんです。「今朝からこういうお知らせを頂いて、とにかく人事の限りを尽くさなければね」と言うた途端でした。私のあの応接台の上に、パチーッと大きなおいさみがありました。
 「分かったかお前達も」と言ってから、子供達に申しました。私の目の前のこの応接台の上にね。いかに信心は神がさすと仰るけども、私共が一心発起してです、人事の限りを尽くすと云う事は私共です。今日は皆さん大変な御理解を頂いているんですから、どうぞ一つ本当に頂いて下さい。もう二十年も前でしたか、光橋先生が久留米に出ました時に、私があちらにしばらく奉仕しております時に頂いた御理解の中にね、『紙は神が折る。骨は氏子が削れ』というお知らせを頂きました事があります。
 昔はあのう扇折りの事を、あのう扇子を作る事を扇折りと言ったんです。扇は自分で折って作った。骨は勿論削る。だからその事なんです。『紙は神が折ると仰る。だから氏子お前たちは一つ骨を削れ』と仰る。骨身を惜しまずにね、骨を削って言うなら人事の限りを尽くせと言う事なんです。もうこうなったら絶対末広の、所謂おかげが受けられるぞと言う事なんです。骨を削らなければ、神様が紙を折って下さっても、是を一緒にしなければ扇子にならないですわね扇にならないです。
 扇と言う事は末広と言う事です。ね。本当のおかげの言うなら肝心要の所を、今日皆さんに聞いて頂いているんです。ね。ただあのう最近よく使われますね、「信心も程々にしとかにゃのう」と言う様な事を言うたり、思うたりする人達が段々おりますからね、だから成程、程々はほど程でおかげは受けますけれども、そういうおかげは言うならば、必ず水泡に帰してしまう様なおかげです。言うならあの世に持って行けれる様な、おかげではないです。程々で頂いたおかげは。
 だから真の道を本当に判らして頂いて、真の道をまっ行じて行くと言う事はです、そこから真のおかげを受けられると云う事はです、私は今日の御理解が此処ん所を充分理解して、解らして貰うてそして楽しみを持って、今日は私が言う様な信心に打ち込まして頂かなければいけないと思うんです。ね。そこからですこの解くと云う字ね、正確に廻りは解かれて行きます。ね。刀辺に牛と書いてある牛が解かれて行く。ね。
 その人事の限りを尽くしておる時に廻りのお取り払いを頂いてね、そして段々判らして頂く事は、神様のおかげを頂かなければ立ち行く事ではないんだと云う事になる。ね。其処で自分で様々なおかげの選り好みをするのではなくて、神様が下さるのならば、何も一切をです有難く合掌して受けようという、いわゆるなぜ御の字を付けなければならないかという訳が分かって来るでしょう。ね。御事柄として受けて行くそういう信心にならして貰う、と云う事がです神力にすがる姿勢であると同時にです、ね。
 そういう心の状態で、神様に一心にすがって行く、其処から人力自ずから湧くという、ね。教祖様の諡号ですが、「人力威之命」人間のね、人間の姿はしておるけれどもです、本当に成程神様じゃなあーー、成程信心して頂くおかげと云う物は、あんな素晴らしいものかなあー、というような世の中の人を驚かす程しの働きが生まれてくる。それは自分の心から生れて来るのです。その心を神様は引き出して下さるのです。それが「紙は神が折る」と仰るのはそう云う事じゃないでしょうか。
 「氏子は骨を削れ」と云うところが、人力に見切りを付けさせて頂くまでの、人事の限りを尽くすと云う事だと、私は思うです。今日は「御」の字の意味と、それから、御理解の「理」という字の教祖様の奥城の事をこの「理」の字から頂いて、「解」という字の中からめぐりを解いて行く、お取り払いを頂くという、意味のことをです、『人力に見切りを付けて、神力にすがれ人力自ずから湧く』という、今朝から頂いた、お知らせについて聞いて頂いた。
 だから歌だけではどうも私も意味が分からなかったけれども、皆さんに聞いて頂いたように、この一つ一つに今お話を申しました様な内容がある事を分からして頂きました。どうぞ一つ、おかげを折角頂くのですから、自分の心の中にもこういう有難いものがあったのかと、自分の心の中にもこういう偉大な働きを発揮する力が潜在しておったのか、と改めて有難いと思わせて頂けるような信心を頂かなければいけないと思うですね。 
   どうぞ。